ラーム・エマニュエルは、民主・共和両党からの賛成票により、第31代駐日米国大使として2021年12月18日に承認された。

大使就任前は、第55代シカゴ市長を務め、2019年5月までその任にあたる。任期中には、世界を代表する都市としてのシカゴの将来を確かなものにするため、いくつかの重大な決定を行った。まず市長として、学校の授業時間を1日あたり75分延長し、年間の授業時間を200時間以上増やした。これにより生徒は、今までの4年分に相当する学習時間をさらに得ることとなった。これは、単一の市よる一回の教育時間延長としては最大であり、全米の大規模学区の中で最も教育時間が少なかったシカゴを、他の大都市と同等レベルにするものであった。また、シカゴの全児童のために、誰もが利用可能なプレ幼稚園と終日幼稚園の制度を導入したほか、全米の都市で初めて、コミュニティーカレッジの費用を無償化した。

市長としての包括的な公共安全戦略は、危険にさらされている青少年向け予防プログラムの拡大、よりスマートな治安維持戦略、暴力削減に向けた父母やコミュニティーのエンパワーメントに重点を置いたものであった。また、グローバル企業の誘致を優先事項とし、企業誘致と海外直接投資においてシカゴが7年連続で国内首位の座を獲得するのに貢献した。市長陣営は、インフラ、公共交通機関、(公園や広場などの)オープンスペース、文化アトラクションに投資を行った。旅行、観光、貿易における世界的リーダーとしてシカゴの地位を確固たるものにした85億ドル規模のオヘア国際空港近代化プログラムから、象徴的な1.25マイル(約2キロメートル)におよぶシカゴリバーウォークの開発に至る投資は、何千もの高収入の雇用を創出し、同市をさらに生活や仕事、娯楽にふさわしい場所に変えている。

シカゴ市長就任前は、2008年11月から2010年10月までバラク・オバマ大統領の首席補佐官を務めた。大統領の最高顧問であると同時に、オバマ政権の「2009年米国復興・再投資法」と、画期的な「患者保護並びに医療費負担適正化法」の成立に貢献した。

イリノイ州第5選挙区から連邦下院議員に4度選出されている(2002年~2008年)。下院民主党議員連盟会長として、最低賃金引き上げ法案の成立を支援したほか、「五大湖回復法」を立案した。

1993年から1998年まで、ビル・クリントン政権の主要メンバーとして、政策・政治担当の大統領上級顧問を務める。任期中は議会との調整役を務め、クリントン政権時代を代表する法律の制定に携わる。特に、「連邦攻撃兵器禁止法」、「ブレイディ法」、1000万人の子どもたちを対象に医療保険を拡大する子ども医療保険プログラムを創設した歴史的な「均衡予算法」の成立に向けて陣頭指揮を執った。また、当時上院議員であったジョセフ・R・バイデン・ジュニアと緊密に協力し、「1994年女性に対する暴力防止法」を議会での成立に導いた。

投資銀行「センタービュー・パートナーズ」のシニア・カウンセラー、「ワッサースタイン・ペレラ」のマネージング・ディレクターを歴任。金融に関する豊かな経験を持って大使の任に臨む。

サラ・ローレンス大学を1981年に卒業。1985年にはノースウェスタン大学でスピーチとコミュニケーションの修士号を取得。 家族はエイミー・メリット・ルール夫人と3人の子ども。

 

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